「さてと、夕日の時間になってきたね」
彼は立ち上がり、私の前に立った。
あれから私達は他愛ない雑談をした
内容のない、ただのおしゃべりだ
「さてさて、この老人にその御手を拝借させて頂けませんか?」
そう言って、自分の手を差し出してきた。
私は差し伸ばされた手に自分の手を重ねた。とても暖かな手だった。
彼はそっと私を引き上げた。

 こんな事を手紙で書くのは失礼だと思いますが、私はきっとあなたに恋心を抱いていたんです
手紙を一部抜粋

 次の日、あの子の病室は何も無かったかのように片付けられていた。
少し寂しい気持ちになったが、不思議と息苦しさは無かった。
これも彼のおかげだろうか…
今日も散歩する事にした。
また、会えるだろう。今日はどういう挨拶をしようかしら。
そんな事を考えながらワクワクして木の前に向う。
でも今日、彼はいなかった。
きっと回診の時間が延びたんだろう。
そう思って待つ事にした。
でも、どれだけ待っても彼は来ない。
もしかして!そんな良くない事を考えてしまう自分が憎かった。
でも、孤独は人を消極的にしてしまうようだ。
結局、その日彼は来ないままだった。
 次の日、私は検査が延びてしまい、いつもよりも遅い時間になってしまった。
でも、まだ間に合うはずだ。
今日もあのベンチに向った。
そこにある彼の背中を求めて…
でも、そのベンチには誰もいなかった。
彼の代わりに、一通の手紙が置いてあった。

笑顔が似合いそうな女の子へ
拝啓
新緑の萌える季節、いかがお過ごしでしょう
昨日の検査の結果、私はこの病院を退院する運びとなりました。
あなた様に一言申し上げてからと思っておりましたが、本日は御見えにならない御様子
よって、失礼な事と存じますが、この手紙を挨拶の代わりとして置いて行きます。
また、いずれ会う事もあるでしょう。私の仕事の性質上、あなた様が私の書いた物を
ご覧になられる事もあるでしょう。その時は、よろしく御愛顧ください。
あなたから多くの物を頂いた幸運を持つ者より  宮内 望
               敬具

 彼からの手紙はそう書かれていた。
まったく作家らしくない。きっと作家だなんて嘘なんだ。
でも…明日外出許可を貰って書店に行ってみよう。
私は彼からの手紙を胸に抱いて病室へと帰った。

 1週間後の事だ、私は外出許可を貰い、書店に来ていた。
時間には余裕があるので私はゆっくり見て回ることにした。
宮村 宮本…とりあえず、み行を見ていく
宮田 宮尾 宮内…あった!
宮内 望の名前があった。政治思想?
難しい事を書いてる人だったんだなぁ、私は何故か感心してしまった
どうしても政治などと書かれていると敬遠してしまう
そんな事を書いてるんだと思うと、まるで彼が雲の上の人のようだ。
とりあえず、一番易しそうな本を一冊買う事にした。

 ブックカバーを外して読む体勢に入る。
題名は『君主論考察』またまた、難しそうな題名である。
ダメだ、さっぱりわかんない。やっぱり実感の伴わない事は理解し辛いんだと思う
でも、これで彼への手紙が書ける
今日はそれで良しとしよう。

 拝啓 すてきな紳士様へ
先生…覚えていますか?
私は病院で先生と出会った女の子です。
先日、先生の御本を書店で発見して思わず手にとってしまいました。
でも、先生が本当に作家だったなんて驚きました。
私にはとてもそう見えなかったんです。
今、私は検査が続いています。
でも、お医者様が調子は良いみたいだけど安心して気を緩めてはいかんぞ
なんて言うんです。
でも、あの時先生が励ましてくれたから…私はもっと生きてみようと思うんです。
ずっと、不治の病だから、と俯いていた私を先生は助けてくれたんですね。
先生からの手紙を読んだ時、とてもショックでした。
どうしてかと言うと…これから先は気になさらないでくださいね
こんな事を手紙で書くのは失礼だと思いますが、私はきっと先生に恋心を抱いていたんです 
そうとしか考えられません。
先生が去ってからの数日、ずっとあの木の前にいました。
そうすると先生の顔や言葉が浮かんでくるんです。
多分、淡い恋心なんだと思います。
お忙しい中、このような手紙に割く時間なんてありませんよね。
では、最後の挨拶をさせていただきますね。
また、来年の春にあの木の下で会いたいです。
私はその日までに元気になりますから、きっと来てください。
笑顔を取り戻した女の子より
敬具

 私は来年の春まで、この手紙と思い出をそっとアルバムにつめておこうと思った。
きっと来る桜の季節を待ち望みながら。
                   終わり
 先生が本当に作家だったなんて驚きました。
手紙を一部抜粋

 あの人に会った翌日も私は散歩していた。
最近は症状も軽くて、お散歩程度なら許されている。
私の知っている子は部屋から出る事も出来ない。
その子に比べると私はまだ自由な方だろう。
でも鳥かごの鳥を室内犬が不憫に思う事と私がその子を不憫と感じる事は同じ
自由を知らない者が自分より不自由している者に自由の良さを語るようなものだ。
今日も同じ道を通って同じ場所に行く
これといって特別な事はしない
でも、それを自由と錯覚している自分と鳥かごの鳥に違いなんてあるのだろうか…
 また、今日もあの木の前に着いた。
やっぱり、彼も来ていた。
背格好から想像して歳は二十代後半だろうか…
昨日のノートを開いて、何か書いている。
彼の邪魔にならないように私は静かに腰掛ける
でも、古いベンチの微かな軋みで、彼に気付かれてしまう。
邪魔しないように考慮したのに効果がなかった。
昨日は何も話せなかった。
今日は私から話しかけてみようと思った。
「こんにちは、何を書かれているのですか?」
彼のノートを見て聞いてみる。
そうすると意外な答えが返ってきた。
「いやはや、私の本業は作家なんですよ。」
屈託なく言う
「感動した事は書き留めるようにしてるんです」
そしてまた、書いていく。
「そうなんですか」
この人の病気は多分、心のものなんだ。
きっと、自分を作家なんだと思い込んでいるに違いない
そういう人はたまにいる。
だから多分、彼もそういう類の人なんだ。
見た目には変わりのない普通の人に見える
実際、普段着なら来院者と思ってしまうだろう。
でも、彼は病気なのだ。
 私は、彼が何か書いているのを尻目にそそくさと帰ってしまった。
彼はちらりとこちらを見たが、事も無げにまた書き出した。

 あの時、先生が励ましてくれたから
手紙を一部抜粋

 その日は酷い胸騒ぎがした。
昨日の夜に、私の知っている子の容体が悪化したらしい。
何故、私が知っているのか?
その子の家族が呼ばれて来ていたからだ。
今朝、目がさめると看護婦さんに尋ねた。
「ああ、昨日の事?あの子の症状が軽くなってきたから自宅療養に切り替えたのよ」
そう答えられたけど、それは嘘だ。
自分の身に降りかからなくても死は患者に悪影響を及ぼす
だから、死に関わる事を私から遠ざけるんだ。
そんな事があり、私はとても沈んでいた。
そんな気分を紛らわせようと散歩する事にした。
じっとしていたくなかったからだ。
 また、あの木の前に来た。
あの人は今日も座っていた。
私は彼のとなりに腰を降ろして
「どうして人は死ぬの?」
と聞いた。
この衝動的な行動の意味はわからない。
でも、彼ならその答えを知っているような気がしたのだ。
「………」
彼は無言だった。
彼も何も答えてはくれない。
当然だ、そんな事わかる人間なんていないのだから。
でも…
「どうして答えてくれないの?作家なんだから、何か言ってよ」
私は俯いた、嘘でもいいから、何か答えが欲しかった。
誰かに何かを答えて欲しかったのだ。
私は俯いたまま自分の行動を恥じていた。
なんだか、とても子供じみていると思ったのだ。
「人の死…」
彼はそう切り出した。
「君は人の死を問うのかね?」
彼は不意に私に問いかけてきた。
「そうよ」
私は答えた。彼はノートを閉じて私の方を向いた
「人が死ぬという事は自然な事だ」
そんなありふれた事を言った。
そんな事、私でも知っているわ!
「だけど、同時に人には何故『死』があるのかを考えることも自然な事だ」
そう、人が死ぬ事も死を問う事も必然なのだ。
「でも、この答えは残念ながら存在しない」
強い口調で彼はそう言いきった。
「君が、どうしてそこまで悩むのかを聞きたいね。そうすればもっと適確な答えをあげられる」
私は彼に事の一切を話した。
彼は少し悩んでいたが口を開いた。
「君の友人が死んだ、だから悲しんでいる…」
それは答えではなく考えを整理する為の独り言のような言葉
「私は、もしも、自分が死んだらあまり悲しんで欲しいとは思わないな。」
彼はそんな事を口にした。
「どうして?」
私は聞いた。
「考えてもみたまえ、この世にいない自分を悲しんでくれても進歩が無いだろう。私なら自分の死に捕らわれずに、それを乗り越えて成長してくれる方が嬉しいね」
「意味がよくわからないわ」
率直な感想だった。
「もしも、仮に天国なんてものがあるなら、君の友人は君を見て困っていると思うな。だって、君が悲しんでいても自分は何もしてあげられないんだから。」
「それって?」
「死んだ者の事を思うなら、人の死というものに捕らわれるな。私はそう言いたいね」
「なんだか冷たいのね」
「でも、他所では葬式を賑やかにする国もあるんだよ?」
「どうして?」
「死者とて、辛気臭いのは嫌いなのさ」
そんなやり取りを続けた。
自分が後向きだからだろうか…彼は常に前向きに見えた。
「でもね、これだけは言いたいな。」
彼は一呼吸置いて続けた。
「捕らわれる事は良くない、でも、忘れる事もしちゃいけない」
難しいけどそういう事さ、と彼は付け加えていた。
たしかに、私があの子にしてやれる事は無い。
また、あの子が私に出来る事も無い
だから、捕らわれず、忘れないように生きろという。
これは彼なりの励ましかたなんだろうか…
 先生…覚えていますか?

 手紙の書き出しは、そう綴られていた。
私のもとにも少ないながら手紙はくるのだが、こういった書き出しのものは
大抵勘違いも甚だしい自己陶酔型のものが多い…
しかし、読み進めていくうちに面白いと思った。
その差出人の名前は…
『穂上 芽衣子』

 私の名前は芽衣子…ずっと病院に住んでいる。
私の少なくて希薄な記憶のほとんどは病院の中の事だ
正確な病名は知らないけど、とても珍しい病気らしい
多分、治せない類の病なんだと思う。
そうでもなければこの第3特別病棟にはいないだろうし…
私の病室はその病棟にある、私はここにいる患者で無事に退院していった人を
見たことがない…
だから、ここは多分そういう場所なんだと思う

 その日も私は中庭を散歩していた。
散歩は私には唯一の楽しみだった
春も夏も秋も冬も…私にはとても綺麗に見えた。
いつもの代わり映えしない病室の壁と天井に比べると、鮮やかな外の世界はいつでも
ファンタジーだった。
静かに影を落とす葉桜を見て、過ぎた春を、近付く夏を実感する。
私がいつものベンチの前に来た時、そこに誰か座っていた
先客がいるようだった。
私同様、四季の移り目を見ているようだった。
しかし、着ている服は男物ではあるが第3特別病棟の服だった。
こんな人を見た記憶は無い
だから多分、昨日か今日に入った人なんだろう…
私が離れたところから見ているのに気づいたその人は
「おや?失礼、君の席だったかな?」
と言った。
まるで、とぼけたような口ぶりで。
そして、少し横に動いて私の座るスペースを空けてくれた
私も少し疲れていたので、躊躇わずに座る
ここの席が一番日当たりがいい。
そして前の桜の木が暑くならないように影を提供してくれているので、気持ち良い。
「ここは、日当たりもよくていい場所ですね」
隣の人が不意に言う
「私はここ何日も外に出てませんからねぇ、気付けば春も過ぎていた」
そう言って、手に持っていたノートを開いた
「ここの桜は春になると綺麗なんでしょうね」
ノートに目を落とし、何か書いている。
「春風に そよぎ散りゆく 花桜 青い空をも 緋色に染めて」
彼は不意に口にした、短歌みたいだ
俳句とか短歌の良し悪しを判断する事は出来ないけれど
何となく、良く出来てるような気がする。
「さてと、そろそろ回診の時間ですので、失礼しますね」
不意に腰をあげて、振り向きもしないで言うと
帰っていってしまう。
何故だろう、とても不思議な感じがした。
 あんな人は病院には少ないタイプの人だと思う。
でも、あの人も病気なんだ…
多分とても重い病、そうでなければこの第3特別病棟にはいない
ここは死を待つ建物なのだ。
それほど重症には見えない、だけどきっとそうなんだ。