【アレ】について

2004年1月31日
31日 晴れ

最近、巷に溢れている【アレ】が苦手になってきました。

事の発端は、とあるアルバイターの発言でした。
「これまで【癒し系】を目指していたんだけど、気が付いたんです」
「私、実は既に【癒し系】だったんだ、という事に(嬉」
否定するのは大人として賢い方法であるとは思えず、また安直に肯定するのも何だかなぁ、なので
『その発言の根拠を述べよ』
という、最近の若者に嫌われる事必至の対応をした所
やはり嫌がられました(苦笑
根拠を述べたら【癒し系の定義】に移ってやろうと思ってたのに(ちっ。
いや、別に私は【癒し系】を否定するわけではありませんよ?
私とて癒されたい時は多々ありますし、人は単独で生きるにはあまりに弱くて脆いですから
つーか、ネットに繋いで誰にも遭遇しなかった時なんて…
こうして日記を書くのもそういった孤独からの逃避であると思います(苦笑
脱線しましたが、定義の曖昧な【癒し系】が私はどうも苦手になってまいりました。
【和み系】も同様です(汗
そこで、私の心癒される瞬間というのを考えてみました
・愛犬との触れ合い
・古い友人との交流
・激論を交し合った友との雑談
・恋人との時間
・ラルク・黒夢などの音楽を聞く
・静かな場所での読書
・真夜中の散歩
・意味も無く京都にて自然と触れ合う
・自分内名作ゲームのプレイ中、など
と、あまり幸福な人生じゃねぇなぁ、と溜息混じりに思ってしまいました(汗
でも、やはり気になったのは、そこに【自分】というのがどのように作用しているのか、という点です
【自分の存在を認識出来る】というのがポイントかもしれません
上から4つまでは妥当ですね、他者との距離というか領域の認識は自己の領域の認識ですから
音楽も交響曲などのような音ではなく詩を楽しむので、詩と自分の対比とか他者の視点と自分の視点の
交錯によって自分の視点を再認識します
静かな場所での読書など本の内容よりも、読書している自分の存在が重要ですし
夜中の散歩(徘徊?)も『咳しても一人』みたいな自己認識が可能です
と、考察してみた所『自分って、寂しがり屋やなぁ』と。
何か、自分だけの何かが欲しいのかもしれません
自分と他者の境界が曖昧になる、というのが怖いのかもしれません
自分が、自分以外のすべてに対して吐いている嘘が怖いのかもしれません
いやはや、我侭な奴だなぁ(苦笑
こうして日記を書く事も、実は癒しなんでしょうね、きっと。

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